2010年06月22日
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みみずのたはこと「紫雲英/自動車」の位置

Written By: 川俣 晶連絡先

 鞄に入った「みみずのたはこと」を開いたときにはたと気づきました。

 「これ、今ならありありと場所や光景が分かるぞ」

 (以下、引用はここから)

紫雲英 §

 午後の散歩に一家打連(うちつ)れて八幡山(はちまんやま)、北沢間(きたざわかん)の田圃(たんぼ)に往った。紫雲英(れんげそう)の花盛りである。

 此処は西欝々(うつうつ)とした杉山(すぎやま)と、東若々(わかわか)とした雑木山(ぞうきやま)の緑(みどり)に囲(かこ)まれた田圃で、遙(はるか)北手(きたて)に甲州街道が見えるが、豆人(とうじん)寸馬(すんば)遠く人生行路(じんせいこうろ)の図(ず)を見る様で、却(かえっ)てあたりの静(しず)けさを添(そ)える。

 田圃というのは明らかに低地。北に甲州街道が見えるということは、おそらく烏山川の支流(八幡山駅西部)です。とすれば、芦花公園側が杉山で、松沢病院側の丘が雑木山ということになります。

主人は田川の生温(なまぬる)い水で泥手(どろて)を洗って、鬼芝の畔に腰かけつゝ、紫雲英を摘む女児を眺めて居る。

 つまり、簡単に手を洗えるような小川だったわけです。

自動車 §

曾て溜池(ためいけ)の演伎座前(えんぎざまえ)で、微速力(びそくりょく)で駈(か)けて来た自動車を避(さ)けおくれて、田舎者の婆さんが洋傘(こうもり)を引かけられて転(ころ)んだ。

 演伎座は赤坂にあったようで、この場合の溜池は一般的な用語の水を貯めておく池では無く、おそらく溜池山王の溜池。江戸時代の地図を見ると江戸城の西の方に描かれている大きな池のことです。

 運転手の手にハンドルが一寸捩(ねじ)られると、物珍らしさにたかる村の子供の群(むれ)を離(はな)れて、自動車はふわりと滑(すべ)り出した。村路(そんろ)を出ぬけて青山街道に出る。識(し)る顔の右から左から見る中を、余は少しは得意に、多くは羞明(まぶ)しそうに、眼を開けたりつぶったりして馳(は)せて行く。坂を下って、田圃(たんぼ)を通って、坂を上って、車は次第に速力を出した。

 青山街道というのは、今の246らしい。ということで、徳冨健次郎宅つまり芦花公園の保存家屋の場所から見て、南の方に向かったようです。下って降りたということは、烏山川を超えたのでしょう。

 豪徳寺(ごうとくじ)附近に来ると、自動車は一(ひと)かく入れた馬の如く、決勝点(けっしょうてん)を眼の前に見る走者(そうしゃ)の如く、宛(さ)ながら眼を(みは)り、(うん)と口を結んで、疾風の如く駛(は)せ出した。

 豪徳寺を経由したようですが、もちろんまだ246には達していません。

 忽(たちまち)世田ヶ谷村役場の十字路に来た。南に折れて、狭い路を田圃に下り、坂を上って世田ヶ谷街道に出るまで、荷車が来はせぬか、荷馬車が来はせぬか、と余はびく/\ものであった。

 世田ヶ谷に出て、三軒茶屋以往は、最早東京の場末である。電車、人力車、荷車、荷馬車、馬、さま/″\の人間の間を、悧巧(りこう)な自動車は巧に縫うて、家を出て三十分、まさに青山に着いた。

 世田ヶ谷村役場の十字路とは、世田谷線若林の近くです。若林の北方になります。しかし、環七はないので、それに似た古い道を辿って南に向かったことになります。ここで下って上っているのは、おそらくまた烏山川です。烏山川の両岸を行ったり来たりしながら走っていることになります。そして、世田ヶ谷とは世田ヶ谷村役場の十字路に代表される地域。三軒茶屋が経由地となり、ここでおそらく246に出たのでしょう。

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